5月6日。誰に何を言われるわけでもなく、本は毎日読んでいる。本を読んでいると言うと「すごいですね」と言われる昨今だが、昭和時代は誰もが本を読んでいた。なにも凄くはない。小学生時代も中学生時代も、休み時間になると多くの子どもたちが図書室や学級文庫の本を読んでいた。
小学生の頃は遠藤周作、太宰治、芥川龍之介、夏目漱石といった文豪たちの文章に魅せられ、つまらない授業中はいつも彼らの小説に没頭していた。算数の授業中に担任の辻井先生から注意を受けたことが一回だけあったと思うが、それ以外は何も言われなかった。内職ではない。読書が本職だった。
中学校の国語の教科書は実につまらなかった。すでに読んだ本の抜粋ばかりだったからである。ただ一人だけ、私の注意を喚起した作家がいた。中原中也である。近所の小さい書店で中也詩集を買ってきて読みふけった。詩は初めてだったのでどう解釈していいのかわからなかったが、数を読んでいるうちにわかるのだろうと割り切ってページを繰った。
高校に入ると、小説も読んではいたけれど、国語の先生の影響を受けてフロイトやユング、あるいはニーチェやキルケゴールが脳の大半を占めた。親はそんな息子を見てもうすっかりあきらめていたけれど、学校の勉強する気持ちも時間もなかった。高2夏の模試の偏差値は30台ではなかったか。くだらない穴埋めや下線部訳なんかより、知の大海に魅せられていた。
高2秋に祖母が亡くなった。それをきっかけにして、英語の勉強を始めた。大学に入らないと貧乏から脱却できないことがわかっていたからである。なんのために勉強するのかと聞かれることが多いが、貧乏人にとって答えはひとつしかない。読書が日本語から英語に変わっただけなので、成績は一年で跳ね上がった。
本を読まない大人と子どもが増えたらしい。それはつまり、教養のない人間が増えたことになる。教養とは知識と語彙力と思考力だが、それらがなくてなんの人間なのだろうと思う。若い人たちには、特に貧乏な若い人たちには、周囲から嘲笑される程度に本を読み、教養ある人間に、つまり人間らしい人間になってほしいと願う。
木村達哉
追記
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