8月15日。終戦記念日。全国戦没者追悼式総理大臣式辞の中で石破茂首相が「反省」を使った。「あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません」という形で。この二字熟語を使ったのは野田首相以来である。吾輩は高く評価しとるが、そうでない人たちもいるらしい。
首相に噛みついているのが右なのか左なのかは存じ上げないが、要するにこれ以上の反省など要らんということである。しかし、石破首相の式辞挨拶を読み返すに、アジア諸国への侵略行為に対する反省だとはどこにも書いていないどころか暗示すらされていない。そういった方々は心のどこかにルサンチマンを抱えておられるのだろう。
戦後生まれの天皇陛下は「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と同式典でおっしゃった。この「深い反省」も石破首相が使った「反省」と同義だと考える。要するに「二度と戦争はしません」という思いを首相も天皇も述べられたのである。
吾輩は物書きである。一つひとつの言葉を大切に使うのが仕事である。言うまでもないが、同じ言葉でも文脈が異なると違う意味を包含する。関西で「お前、しばくぞ」は、場合によっては「君のことが大好きだ」という意味になる。恋愛小説で「もう!大嫌い!」が「愛してる」に近いニュアンスを持つのと同じである。
どうして文脈を無視する人がこんなにも増えたのだろう。どうして日本人の日本語力はこんなにも堕ちてしまったのだろう。もちろん、石破首相のやることなすことが不愉快でたまらず、言葉尻を捕らえて批判しているだけの向きもあろうが、それにしてもカオスである。能力の低さをご自身が披露されていることにも気づいておられない。
首相が広島と長崎で引用された「大き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」(正田篠枝)と「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」(永井隆)を聞いて、広島と長崎の方々はどういう思いだっただろう。官僚の作った文章を機械的に読んだ過去の首相とは違い、首相自らが言葉を紡いで思いを吐露したことに心を震わせた方々だって少なくはなかったはずだ。
吾輩の母は大阪の大空襲で焼夷弾から逃げまどい、疎開先の岡山でいじめられ、もう二度と戦争だけはしたらあかんと言い続けていた。戦争を起こした軍人たちや政治家たちに成り代わって反省を言葉にし、お亡くなりになった方々には言うまでもなく我々国民に対して、何があろうとも戦争はしませんと誓う人たちにこそ政治家であってもらいたい。
木村達哉
追記
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