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長嶋茂雄死去のニュースに思う

2025.06.07(土) 09:00

6月7日。長嶋茂雄さんがお亡くなりになったのが6月3日。長嶋と王貞治は、野球人にとってやはりいつまでもアイコンである。今となってはほとんどテレビを観ない私が、小学生時代は月曜日がつまらなかった。野球中継がないからである。

とは言っても巨人ファンではなかった。1番の柴田から8番の森まで、気が抜けない巨人打線に立ち向かう江夏豊が大好きだった。昭和48年だったか、阪神が優勝するのではないかと思われたが、最後の最後で巨人がひっくり返した。阪神に失望したのは小学校5年生だった私である。阪神の帽子を叩きつけた挙句に捨てた。

翌年、長嶋茂雄引退。巨人がV10を成し遂げるのではと言われた年である。長嶋が引退で巨人が10連覇。ここはさすがの阪神ファンたちも、今年は巨人でいいんじゃないかという空気が流れていた。なのに、0.5ゲーム差で優勝をかっさらったのが中日ドラゴンズであった。ドラゴンズは20年ぶりの優勝。「1番高木が塁に出て」と歌われた「燃えよ!ドラゴンズ!」が大流行した。“空気を読まないドラゴンズ”と揶揄する他球団ファンもいたが、負け惜しみにしか聞こえなかった。

空気を読まない私がそんなドラゴンズに惹かれたのも当然である。その昭和49年からドラゴンズファンになった。ちなみにその翌年、昭和50年は古葉監督の広島カープが赤ヘル旋風を巻き起こして初優勝。長嶋茂雄監督率いる巨人は球団史上初の最下位の苦渋を味わった。

プロ野球がつまらなくなったとよく言われる。それでもなんだかんだで球場はいっぱいである。つまらなくなったのであれば閑古鳥が鳴いていてもいいはずだ。要は、昭和時代の野球や応援とはまったく違うものになったということなのだろう。それがいいかどうかはわからない。

増山実先生の『勇者たちへの伝言』を読んでいる。阪急ブレーブスが強かった時代、私は西宮球場の一塁側によく座ってはビールを飲んでいた。大学生の私は、野球を観るというよりヤジる観客とそれに応える選手を観るのが好きだった。福本や加藤、南海の門田に近鉄の平野…あの頃の野球は泥臭かった。みんなで歌を歌わなかった。客も選手もそれぞれがめいめい叫んでいた。

長嶋茂雄は敵ながらあっぱれな選手だった。長嶋が打席に立つ。グラウンドもスタンドも空気が一変する。長嶋打つなよという願いはレフトスタンドに飛び込む白球に打ち砕かれた。長嶋が大嫌いだった。でも、亡くなったと聞いて胸が締め付けられるのはどうしてなのだろう。私のような日本人も多いのではないだろうか。

長嶋さん、安らかにお眠りください。九州のイチローだのなんだのは毎年出てくるのに「〇〇の長嶋」が出てこないのは、あなたが唯一無二の存在だったからです。

木村達哉

追記
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